漢張遷碑
漢の張遷碑
君の諱は遷、字は公方。陳留郡・己吾県出身の人である君の先祖が周の時代まで遡る。周宣王が王政を復興させたとき、張仲という者がいた。張仲が父母に仕えては孝行を尽くし、友達と交際するときは誠実をモットーとしていた。「詩経」の「雅」と「頌」に目を通だけで、張仲が張遷の先祖であることが分かるだろう。
漢の高帝(劉邦)が兵を起したときには、軍師の張良がいた。張良は本営の中で巧みに計略を用いて、千里も離れた戦場での勝負を決した。(天下統一後は)「留侯」に封じられた。
漢の文帝・景帝期に、漢の忠臣、張釈之がいた。張が公正な裁判を行っていた。
あるとき文帝は上林苑で遊猟を行い、鳥や獣がどれくらいいるかを苑令に尋ねた。
ところが苑令は答えられなかった。そこで嗇夫(下級役人)に尋ねると、嗇夫はどんなご下問にも的確に答えた。
文帝はこれを聞いて、嗇夫を苑令に昇進させ、苑令を嗇夫に降格させようとした。
「嗇夫はよくしゃべる小役人に過ぎず、公卿の才を持つ苑令のような、国家の重責に堪える者ではありません。」と、張釈之は文帝をいさめて言った。
これを聞いて、文帝はその言葉に従った。
漢の武帝の命を遂行した張騫の功績により、西域諸国の文化と中華文化が融合し、国境地域が安定的に発展した。南蛮· 西戎· (北狄 · 東夷) と呼ばれる周辺地域に大きな影響を及ぼしていた。
漢の張遷碑
龍石書
* 漢の武帝の命を遂行した張騫の功績により、西域諸国の文化と中華文化が融合し、国境地域が安定的に発展した。南蛮·西戎·(北狄·東夷)と呼ばれる周辺地域に大きな影響を及ぼしていた。