大内田友郎の生涯

大内田友郎は 1903 年(明治 36 年)6 月 24 日に九州にある浮羽郡田主丸町で生まれた。 教育に一生を捧げる人生は 1919 年 3 月に福岡県粕屋農業学校を卒業してから始まり、後にブラジルへ引っ越す際に大いに役立つ事となった。 1922 年3月に福岡県立実業補習学校教員養成所を卒業し、その後 1926年 3 月には福岡学芸大学を卒業した。

教育省から農業専科正教員、小学校本科正教員、教育長として認定された。

1922 年から 1941 年 3 月に渡り福岡県宗像郡勝浦と東郷、糟屋郡篠栗、そして朝倉郡金川の青年学校の教論として勤めた。

教論として勤めていた 1930 年に同地域で教論をしていた大内田深雪と結婚する。 西洋人にとっては男性が婿養子になるのは珍しい。 木戸友郎として生まれ、深雪氏と結婚する際に彼女の苗字である大内田を取ったのだった。 深雪氏は男兄弟を持たなかったので大内田を名乗る最後の跡取りであった。 その詳細は不明だが、友郎氏が大内田の名を継ぐ事によって大内田が途絶えることはなかったという事は事実である。 1932 年 9 月 13 日に息子の惺、英名”ジョー”が生れた。

1941 年 3 月に福岡県立山門郡瀬高高等実業青年学校及び高等家政女学校にて校長を務める。

友郎氏は高い教養があっただけではなく、武道にも長けており剣道では大日本武徳会から黒帯 4 段を認可された。 この技能は日本軍として中国での戦争に徴兵された時に大いに役立った事であろう。 友郎氏は頭上を飛ぶ流れ弾の下で腹ばいになった事を以前息子に話していたという。 私に戦争の経験は二度と話したくないと言い、中国での戦争体験について聞いた時も話したがらなかった記憶がある。

In 1943, Mr. Ouchida became chairman of the association of school principals of Fukuoka Prefecture. The same year he was the principal of the Fukuoka Agriculture Business College.

1946 年 3 月に浮羽郡西部農業専修学校そして1949 年には浮羽郡竹野中学校の校長を歴任した。 その当時までの 28 年間は教論もしくは校長として勤めてきた。

1953 年 8 月に福岡県浮羽郡、筑陽、田主丸教育委員会教育長となる。 それから 1955 年 7 月に辞職するまで教育委員会に勤めた。

家族を連れてブラジルへ引っ越す決意をする。 親戚がいた事、そして日本政府が国民のブラジル移住を奨励していた事に寄るがそれはあたかも極楽生活のように装った虚偽の口約束なのであった。 ブラジルへ移住後の約 7 年間は農業知識を活かし、自営業で野菜や柿を栽培していた。 地元では美しい薔薇を育て上げる腕前が有名であった。 友郎氏の寛容さは菜園から利益を挙げるという願望よりも強く、自分達で消費しきれなかった分は譲っていた。 また、書道の個人指導も行っていた。

Once there, everyone discovered it was not as the Japanese government office had advertised. Life was very hard.

Sensei and wife Miyuki lived in a rural area. They had both taught school, and Sensei had also taught agriculture, so they enjoyed farming and farm life. Mr. Ouchida worked for seven years raising vegetables and persimmons, utilizing his agricultural knowledge. He was famous with the local people for his gift of raising beautiful roses. His sense of generosity was greater than his desire to profit from his gardens, and rather than sell, he gave away what his family couldn’t use. He also taught Japanese calligraphy in private lessons, and as an accomplished master of kendo, taught and practiced it. Fortunately, they could both get a pension from the Japanese government for their decades of teaching in Japan.

Son Joe liked the rural atmosphere but did not want to be a farmer and moved to Rio de Janeiro and São Paulo and worked in several companies for a few years. Then, wanting to finish college, Joe returned to the United States and graduated from Pasadena City College and then UCLA. He returned to Brazil with a teaching certificate in English to teach in junior and senior high schools. It was in São Paulo that Joe met Tereza in 1964, and, not seeing any future in Brazil, he moved back to California. Joe and Tereza married in Pasadena in 1965.

1968 年に友郎氏と深雪氏はアメリカへ移住し、友郎氏は継続して筆やペンでの書道を教えた。 友郎氏と深雪氏は 1980 年 9 月 6 日に結婚 50 年を迎えた。

In 1974 Sensei established the “Venice Shodo Kai,” that continues to this day in Venice, California.

大内田氏は人生を通じてアメリカ移住後も数々の賞を授与された。

受賞一覧は以下の通り:

大正 5 年 11 月大正天皇御統監(陸軍特別大演習)の際書道御天覧の光栄に浴す 賜盃
昭和 12 年 2 月福岡県知事表彰 社会教育功労者として銀時計
昭和 15 年 4 月支那事変に於ける功に依り功七級金鵄勲章並に金千参百円を授け賜ふ (賞勲局)
昭和 16 年 2 月(原文)夙二文書教育ノ徹底二挺身シ青少年団運動二貢献スル所甚大ナリ仍テ之ヲ表彰ス(大日本青少年団)
昭和 18 年 3 月勲六等瑞賓章(賞勲局)高等官六等(内閣)
昭和 20 年 3 月

正七位(宮内大臣)

Given 6th High Officer (Ministry) Kunrokuto Zuiho Sho Cultural Award.

昭和 47 年 2 月銀盃一組 内閣総理大臣
1976Became Chairman of the Bunka Shodo Gakkai Board of America.
1977Founded the Venice Chapter of the Bunka Shodo Gakkai.
1981Became Shodo 7th Dan (top level of Shodo) and 6th Dan of Pen Shodo.

昭和 60 年 4 月 24 日 55 年間先生の妻であった大内田深雪 他界

昭和 61 年 2 月 JACCC (Japanese American Cultural & Community Center) がリトル東京の Doizaki ギャラリーにて大内田氏の展示会を 2 週間行う出資を申し出た。 スミソニアン博物館の代表が大内田氏に展示会の依頼をしたが、体調不良により断った。

平成 2 年 1 月 16 日 大内田龍石友郎先生 他界

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